フラワーエッセンスとアルケミーの関係について、2003年5月から2004年5月にかけて『ヒーラー&アルケミスト』に連載したディクテーション(チャネリング文)。長いので何回かに分けて掲載。
(「フラワーエッセンスとアルケミー 1」からの続き)
そうして次に、動物界と人間界があります。動物界での表現の中心となるのは、アストラル・レベルのエネルギーです。これは人間も同じです。というのはもちろん人間も動物界の一員でもあるわけですから。
ただ人間とそれ以外の動物の違いは、人間はさらに、意識的な精神性をその存在の表現に加えている点です。それを除けば、人間は基本的に動物です。あるいは、意識的な精神性をあまり発達させずに生きるのであれば、その人の存在表現は、動物たちとあまり変わりません。というより、動物たちが有している本能の知恵から乖離している分、その人生は難しいものになりがちであると言えるかもしれません。
このように見てくると、フラワーエッセンスの働きの仕組みの鍵ないしは乗り物となるのは、アストラル・レベルのエネルギーであることがわかります。
ただし、それだけではありません。このエネルギーを個々の形にパターンづけている、一つ一つのいわば枠型があるのです。それがアーキタイプ(元型)とも呼ばれる、エネルギーのパターン、テンプレート(鋳型)です。
エッセンスの乗り物となるのがアストラル・レベルのエネルギーであり、それに形を与えるのはテンプレート・レベルのエネルギーであって、したがってフラワーエッセンスの生成では、この両方について理解されることが重要です。
そして植物と動物の関わりにおいて、このアストラル・レベルのエネルギーが仲介となる、ということも理解できるでしょう。
ただしアストラル・レベルのエネルギーは媒体、仲介役であって、「エッセンス(本質)」ではありません。ここでは、生成されたフラワーエッセンスと、この「本質」を意味するものとしての「エッセンス」を区別するために、後者をエセンティアと呼びます。これはラテン語で、エッセンス(本質、実在、存在、精)を意味します。
エセンティア自体を花から水に移すことはできません。花のエセンティアをフルに経験するためには、その花とともに在らねばなりません。ですから、エッセンスの生成において行われるのは、このエセンティアのパターンをテンプレートレベルのデータの形で、水にエンコーディング(転写する、刻み込む)ことです。
このパターン化とエンコーディング自体はアストラルではなく、テンプレートに基づくプロセスです。エッセンスの生成に関与する私たちデーヴァと呼ばれる存在が、テンプレート・レベルの存在であると言われるのも、これに関係しています。
さて、このような原理で生成されたエッセンスは、その作用の原理を、要素の対応、すなわち共振性によっています。
植物と動物とがそれぞれ地上に形をとり、成長し、種を永らえ、また進化していく過程で有し、発達させてきたたくさんの要素。それらは周りの環境との関係において形成され表現されるものですが、それらの間にある対応関係に気づき、読みとることが、個々のフラワーエッセンスの働きかけのパターンを読みとる際に鍵となるものです。
ですから、フラワーエッセンスについて理解するためには、その植物自体を理解することが必須である、植物に触れ、観察することが大切である、と言われるのです。
そしてそれと同じことが、動物、そして人間についても言えます。植物に接し、その色、形を見、匂いをかぎ、手触りを確かめ、その生育の場所を肌で感じとるのと同じことを、動物、人間に対しても行わなければなりません。その種の特徴について理解し、体の形態と機能について理解し、自己表現の方法について理解しなければなりません。
現に人間、そして動物に接して、その声を聞き、姿形を見、肉体や感情を通して、その存在の表現を感じとって、そこに表現されている種として、また個体としての特徴、要素をよく見極めなければなりません。
人間と動物の観察において注意が必要とされるのは、植物においては個体性、個性というものはあまり重要でなく、種の中で比較的均一であるのに対し、動物においては種の特徴と合わせて個体の個性というものが存在し(これは魂の性質と関係します)、さらに人間においては個体間の個性の違いが大きく、また重要になってくるという点です。
ですから、あなたが本当にフラワーエッセンスについて、そしてそれを用いた療法について理解したいと望むなら、単純化されたマニュアルやガイドブックにのみ頼ることは止めねばなりません。それらはあくまで初期の学習の手引きとして、ある程度の知的理解が身についたなら、何よりもまず家の外に出て、野や山に出て、植物を見ること、そして自分のまわりの人間や動物を見ることを始めなければなりません。
自分で観察し経験して得た知識に基づかない知識は乾いたもの、ある意味で生命を欠くものです。もちろん、優れた執筆者によってまとめられたレパートリからは得るところは多くあります。しかしそれとても、あなたがその文字のみに頼り、定義に頼ろうとするなら、ある時点を越えて、先に進むことはできなくなるでしょう。
人間は進化している、動物も進化している、そして植物もコンスタントに移り変わり、環境に適応しています。今世紀の初頭に適切であった定義が、今この時点では当てはまらなくなることも当然あります。
個々の国や文化にはまた特有の個性、共有される文化圏、民族の魂と呼ばれる個性があります。一つの国において有意義な定義が、別の国においてはそれほど意味をなさない、あるいは別のより適切な定義が存在することもあります。
なぜなら、定義はあくまでも、扱われるエセンティア(本質、精)を、いくつかのフィルターを経て、人間の限られた経験を通して言葉にしようとする試みだからです。そしてこのフィルターには、言葉、文化、国の風土といったものが、必然的に関わるのです
その意味では、定義はコンスタントに集積され、作り替えられ、生まれ変わり続ける必要がある、ということができるでしょう。そのようなプロセスを恒常的に維持してのみ、それは生きたものとなり得るのです。
(「フラワーエッセンスとアルケミー 3」に続く)
『Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』(Vol. 31)
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